2018年3月28日 (水)

日本ビザンツ学会 第16回大会(2018/03)

Dzgufnquqaa0vrs 2018年3月35・26日に金沢市で開催された、日本ビザンツ学会 第16回大会 の初日だけ参加してきました。2日目も出たかったのですが、仕事が繁忙期の月曜日なので流石にそうもいかず。
細かい発表内容は報告概要 を読んで頂いた方が早いのですが、まず最初に3月で佛教大学を退職される井上浩一先生(日本のビザンツ史好きなら知らぬ人はいないであろう)の講演「アンナ・コムネナの歴史学」から始まりました。

講演は近々相野洋三先生がアンナの『アレクシアス』(アレクシオス1世伝)の邦訳を出され、井上先生ご自身もアンナについての新刊を計画されているということで、女性であるアンナにはホメロスや古代ギリシャの散文や哲学の素養はあっても、古代ギリシャのヘロドトス・トゥキディデスからビザンツに受け継がれた、「男が書く『将来の政治・軍事の役に立てるための』歴史書」の基礎知識がなく、それゆえに今までにはない形の歴史書を(自分の弟へのルサンチマンを織り込みつつ)どう編んでいったかについて語られました。
この後刊行予定の2つの書籍が楽しみです。

小林功先生の報告は内容的に井上先生の『ビザンツ皇妃列伝』のマルティナの章を否定する内容で、コンスタンティノス3世~コンスタンス2世とマルティナ・ヘラクロナスのヘラクレイオス帝死後の争いは侵入してきたアラブ人に対して、北アフリカに縁者が多い(ヘラクレイオスは元々カルタゴ総督の息子)ゆえに主戦派の前者と、和平派の後者の争いが影響したことをエジプトのパピルスに書かれたギリシャ語史料等も交えて説明されました。これも今後小林先生がどういう形でまとめられるのか気になります。

この報告の時、井上先生は質問されるのかとドキドキして見ていたのですが、先生は質問されませんでした。後で懇親会の時に井上先生と小林先生が会話されてるのに混じった(僭越)際に井上先生にお聞きしたら「風邪で声が出にくいので質問しなかった」、とのこと。先生の喉が好調だったらどういうやり取りになったのでしょう(井上先生は、根津先生の『ビザンツ貴族と皇帝政権』のあとがきにもあるように、後輩に自説否定されたからといって怒るような方では無いのですが)。

この後から、小シンポジウム「北欧・ロシア世界とビザンツ帝国」に入って、2日目にまで続くのですが、最初の2つしか聞く機会に立ち会えなかったのは返す返すも残念でした。

1日目は三浦先生の報告が終わった後に、学会の総会・場所を変えて懇親会だったのですが、懇親会の際には史学系の皆様には毎度毎度話しかけてもらえて本当にありがたい限りです。ド素人の一般人にもやさしいのはビザンツ史学系の皆様の美風というか何と言うか。それゆえ、私の「学会にアクセスできる一般人」というポジションをもう少し一般の人向けに生かす機会を探っていかないとなぁという思いを新たにしました。

なお、来年は現段階で首都圏開催の模様です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月11日 (日)

関西ビザンツ研究会参加報告 (2015/10/11)

 4度目の関西ビザンツ研究会参加をしてきました。

 今回の発表は、法政大の伊丹聡一朗氏による「北東ルーシにおける荒野修道院運動ー14世紀のビザンツ=ルーシ関係-」 。

 メインの論題は、ビザンツの静寂主義(ヘシカズム)がロシアの荒野修道院運動に影響した可能性と、その荒野修道院運動がその後の北東ルーシ~ロシアにどう影響したのか、でした。静寂主義の影響に関する部分も去ることながら、14世紀のモスクワの府主教(当時の呼称は「キエフおよび全ルーシの府主教」)とビザンツの関係等(14世紀は比較的コンスタンティノープル総主教庁が積極的に「正教圏」への関与を維持することで世俗権力であるビザンツ帝国の弱体化を補っていたこと、当時キリスト教化していなかったリトアニア大公国に府主教座を置くことでリトアニアの正教化を目論むコンスタンティノープルとモスクワ側の反目、一方で府主教人事を巡ってルーシで争いが生じたミチャイ事件では争っている当事者は必ずコンスタンティノープルにお伺いを立てていること etc.)、なかなか興味深い内容で、井上浩一先生が「学部生の発表だということを忘れるほどだった」と言われるほどのものでした。関西学院の中谷先生や女子美大の平野先生も来られていたので質疑応答も盛り上がり、最後は時間切れに(笑)。

 個人的に、13世紀以降のビザンツの弱体化と東西教会の合一の試みから、ビザンツとルーシの関係は薄くなっていくような印象があった(弱体化したビザンツの皇帝より総主教の権威の及ぶ範囲が広くなっていたのは知っていましたが)のですが、実際はそんな単純なものでもなかったのだなぁと認識させられる内容で、大阪まで来た甲斐があるものでした。

 そのあとの懇親会も、話がロシアへ飛んだりアルメニアへ飛んだり、ビザンツの食生活ってどうだったんだ話へ行ったりで楽しかったですね。素人がこういうのに混ぜてもらえる環境があるのは、本当にありがたいなぁと改めて実感した会でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月22日 (月)

2011-2013 活動報告

更新こそしておりませんが、mixiや実体として地味に活動はしておりますので、ご報告を。

●2011年11月 mixi ビザンツコミュ 第12回オフ会
イスタンブール、アテネ等へ行かれたマイミクさんの体験報告会を行いました。

●2012年8月22-26日
管理人自身が初のイスタンブール旅行を行いました。

●2012年10月
管理人が日本ビザンツ学会に入会しました。

●2012年11月 mixi ビザンツコミュ 第13回オフ会
8月のイスタンブール旅行の報告をメインに発表会を行いました。

●2013年3月
日本ビザンツ学会第11回大会に参加しました。

●2013年4月
関西ビザンツ史研究会の発表会に参加しました。

●2013年5月 mixi ビザンツコミュ 第14回オフ会
発表会を行いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月26日 (水)

関西ビザンツ史研究会の25周年特別例会 見学報告

2009年8月2日(日)に京大会館で開催された、関西ビザンツ史研究会の25周年特別例会を見学してきました。この回は25年の歩みを井上浩一先生が振り返る報告をし、奈良大学准教授の足立広明先生がそれに対するコメントをするという内容で、レジュメと井上先生、足立先生のお話を基にざっくり要約してみると下記の通りです(こんな出来の悪い要約しか出来ないのですが、レジュメをそのまま載せてしまう訳にもいかないので)。

井上浩一先生の報告「関西ビザンツ史研究会25年とビザンツ史学の将来」

1.歴史
1)前史
*それまで皆無だったビザンツ関連書籍の刊行(西欧偏重への反省?)
**渡辺金一『中世ローマ帝国』(1980年)
**和田廣『ビザンツ帝国』(1981年)
**杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』

2)草創期
*雑談の中からのスタート(大学教員2、高校教員6、院生6、学部生2)
*1984年7月1日の第1回は足立広明(現奈良大学准教授)氏による、ティンネフェルト『初期ビザンツ社会』の書評
*レジュメには第1回例会案内のハガキのコピーが記載され、当日は第1回の井上教授の手書きのメモが入ったレジュメも回覧された

3)1980年代の発展 

関東の研究者を交えた「ビザンツ研究者の集い」でも、発表者の大半は関西メンバー

4)1990年代前半の危機
*参加できるメンバー減少(創設時の院生メンバーが関西から離れた場所に就職したことなどから)による危機
*特に1993年は他の分野の研究会との合同開催のみ
*「ビザンツ研究者の集い」でも、発表者が小林功(現立命館大学准教授)氏のみの孤軍奮闘

5)1990年代後半以降

*「集い」が「日本ビザンツ学会」へ発展
*院生が京大と大阪市大に集中(かつては同志社や阪大、神戸大などもいた)

2.活動内容
1)例会
*例会での報告→会員の批判や反論→論文へのフィードバック
*テーマは政治史から多様化
*美術史系の参加も多かったが、現在は日本ビザンツ学会での発表にシフト
*初期から1990年代は書評も多かった

2)関連分野との交流
中世ロシア・東欧、ハザール、古代ローマ、中世イタリア、十字軍、オスマンetc.

3.将来
*歴史学における「ハード・アカデミズム」(新しい知識の発見、国際的な学会でも通用する研究成果の発表)と「ソフト・アカデミズム」(「解釈する歴史学」、知識を広めていく活動)→どちらを目指すべきか
*ビザンツは欧米の学者と日本の学者でスタート地点の差が少ない(ギリシャ人以外は言語的にも、文化的にも異質)、
*「ハード・アカデミズム」の台頭を踏まえた各人の研究スタイルの選択→井上先生自身はダンバートン・オークス留学時の経験か「ソフト・アカデミズム」+啓蒙活動を選択

足立広明先生のコメント

1.1984年という年とビザンツ史研究会の発足
*バブルへと向かう軽さが出ていた時期→そんな世相に背を向けた人たちの集まり
*ビザンツは西欧史、イスラーム史、東欧史と距離がある歴史事象だが上記三世界の成立に深く関わり、それ抜きに正確な理解が不可能な存在
*1980年代の関連書籍発刊
*1983年頃からの始動
*井上先生の自身の視点にこだわらずに広く関連する研究を受け入れる方針から、古代末期からイスラーム研究者まで参加する会に

2.井上浩一:渡辺金一論争とビザンツ史
*西洋史学会での渡辺先生の発表と井上先生の質問→回答一言で打ち切り
*井上先生の『ビザンツ帝国』(岩波)刊行と、それに対する渡辺先生の批判・反論
*渡辺先生の著作は切り口は斬新だが、それに例示されている事象はビザンツ一千年の中でもある特定の時期・地域のみを挙げており、それがビザンツ史全体に適用出来るかどうかは疑問。

3.古代末期とビザンツ史
*古代末期のローマ帝国は既にそれまでとは異質
*6世紀の都市の衰亡は「古代都市の衰亡」なのか(3世紀に既に一度衰亡→復興)
*古典教育の7世紀以降への継続
*古代末期→弓削達、井上浩一両氏の視界の周辺で重なる独自の領域

4.ビザンツ史の将来
*西欧古典学の亜流としての存続
*西欧、東欧、イスラーム各世界の成立とのかかわり→高校の教科書ではわからない
*中世は古代末期に比べて残存史料が少ない→史料に基づく新発見の困難さ、解釈幅の限定
*ハード・アカデミズム成立の条件
*研究の基礎となるべき、古典ギリシャ語・ラテン語教育の衰退

筆者の感想など

井上先生の報告は、ほとんど日本におけるビザンツ研究の(関東は大学の数や学生・研究者数の割にビザンツ関連の研究が出来る大学が少ない上、研究者のまとまりが全然ない)発展史とも呼べる内容でした。井上先生の一般向けの書籍執筆や私のような素人にも丁寧な対応をして下さるのが「啓蒙活動」という個人の信念によるものであるというのも、元々そうであろうとは思っていましたが、納得のいくところであります。

足立先生のコメントでは、
1.の「ビザンツは西欧史、イスラーム史、東欧史と距離がある歴史事象だが上記三世界の成立に深く関わり、それ抜きに正確な理解が不可能な存在」と言うのは、知ってる人にとってはまさにそうだと思えるものでした。ただ、このことが多くの人に知られているかどうかといえば否で、4.にもあるように高校の教科書だとバラバラに成立・展開したようにしか見えません。この辺りにビザンツを知る意義があるのですが、これをどう正しく認識してもらうかは足立先生自身も仰ってましたが、難しい課題だと感じました。

2.の話は、渡辺金一先生の著書は古代ローマ帝国からの連続性・継承性を重視する傾向があり(これは近代以降の「古代ローマからの衰退、退行、停滞」という考え方があり、今でもその古い考えに拘泥している人が特に日本人-たとえばどこかのお婆ちゃん-に多いですが、それに対するアンチテーゼ。『中世ローマ帝国』『コンスタンティノープル一千年』を参照)、それに対し井上先生は古代からの継承された部分も認めつつも明らかに支配構造や都市の在り方など古代とは変わった部分がある(『ビザンツ帝国』『ビザンツ文明の継承と変容』参照)、というものです。ビザンツを古代ローマの継続と見るべきか、古代ローマから派生した後継の別の文明と取るかの違い(足立先生は古代末期~初期ビザンツがご専門ですが、そもそも古代後期のローマ帝国がそれまでとは変わっているというお考えのようです)だと筆者は思うのですが、西洋史学会での井上先生の質問をほとんど一方的に渡辺先生が打ち切るという話の生々しさは特筆もので、「伝説」として伝えられている話をその場で目撃していた足立先生からお聞きしたのは貴重でした。

足立先生のコメントや、参加されていた皆さんの発言でも話題が集中したのは井上先生の報告の最後の「ハード・アカデミズム」か「ソフト・アカデミズム」かでした(足立先生は、日本のビザンツ史学の場合はそんな贅沢な議論が出来る状況じゃない、というニュアンスの発言もされていましたが)。個々の研究者の今後の身の振り方に関わることですから当然のことです。特に院生の方にとっては、これから研究を続けるためには、まず職を得なくてはいけないわけで、切実な問題だということは素人でも想像に難くないことです。研究者の方個人としては新たな発見をし、業績を積み重ねていかねばなりません。

ただ、その一方で日本でのビザンツ史の「啓蒙活動」は井上先生が自らの取るべき道として主に行ってこられ、一般向けの書物を書いて来られました。筆者もそれに影響をされてこんなサイトまでやってる人間ですが、、将来に井上先生のような人がいなくなってしまった場合、米英独仏のような国の近代史とかならいざ知らず、そもそもビザンツが何であるのかさえもロクに知られてないような状態で、この先ビザンツに興味を持って研究を志す人が出てくるのだろうか、ということを懸念してしまいます。筆者もネット上のあちこち(このサイト以外にもWikipediaとかmixiとか)で、ビザンツを少しでも理解してもらおうというつもりで活動してきましたが、素人は素人なりの活動としてこの先出来ることはなんだろうかと考えざるを得ませんでした。

 最後に、「これからもよろしくお願いします」とおっしゃって下さった井上先生(本来はどう考えてもこちらから言うべきです)、サイトまで見ていただいていた足立先生、mixiのマイミクまで申し込んでくださった小林先生ほか、中へ入れてくださった関係者の皆様には改めて御礼申し上げます。

※注意
 今回筆者が見学した際には、元メンバーの方に色々と研究会の様子を伺っていたことや、井上先生や小林先生、足立先生がこのサイトをご存知だったいうことなで、プラスに作用している部分があります。もしかすると、これを読んだ方で見学をしてみたいという方がいらっしゃるかもしれませんが、筆者が中に入れてもらえたときとは事情が異なる可能性もございますので、十分ご注意ください(「行ってみたら、違ったぞ!」と言われても、補償は致しかねます)。

| | コメント (0)

2005年9月 7日 (水)

メモ-ビザンティンの技術力

ビザンティン時代の技術には今から考えても興味深いもの、原理が良く分からないものが多い。

その筆頭は、秘密兵器「ギリシャの火」だろう。筒から発射された液体が燃えながら敵に降り注ぐという、一種の火炎放射器である。この炎は海上でも燃え、水をかけるとかえって燃え広がったという。原料は硫黄や松脂、生石灰、油などの混合液だったと言われているのだが、国家機密とされていたために帝国の滅亡と共に製法その他は失われてしまった。実は、国家機密とされながらもブルガリアやイスラムにも奪われたりしていたのだが、いずれにせよ現代には伝わっていない。誰か再現に取り組む研究者がいても良さそうなものだが、そのような話は聞いたことが無い(もっとも、場合によっては現代でも兵器として通用しうるので、作りたくても作れないのかもしれないのだが。投石器とかは再現している人がいるのに)。

また、10世紀にコンスタンティノープルを訪れたクレモナ司教リュウトプラントによれば、大宮殿の玉座の間には、玉座の脇にある金で出来た鳥がさえずり、ライオンの像が吼えるような仕掛けが施されていたほか、彼が皇帝の前で平伏している間に玉座がせり上がり、皇帝の衣装が変わるような装置もあったという。

さらに、十字軍兵士の記録では、競馬場には動く銅像があったというし、他にも戦艦の造船技術、攻城兵器など、当時の西欧に比べれば明かに高い技術力を持っていたことが伺えるのであるが、これらの技術はいまとなってはほとんどが失われ文献の記述として残っているのみである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年5月 8日 (日)

メモ - 帝国の行政文書

ビザンティンの行政文書は、その大半が戦乱などで失われ、現存するのは修道院に残ってる特権文書の一部のみである。現存する文書の体系はレオーン6世(在位:886-912)の治世で確立された。文書の形式は大きく分けて5種類あった。

1)エーディクトン様式
古代ローマの"edictum"に起源を持つ、本来の文書様式。いわゆる勅令。全臣民に対して、長期的に適用される普遍的な立法文書で、荘重な前文を持つ。前文には、

①呼びかけ(「父と子と聖霊の御名において」)
②発給者(皇帝の正式称号。例えば、レオーン6世の場合「アウトクラトール、カイサル、  フラヴィオス、レオーン、敬虔なる、恵まれたる、高名なる、勝利者、永遠に尊厳なる者、信心深き皇帝(バシリウス)」)
③宛所(例「キリストを愛する朕の全ての臣下へ、神に守られた朕の女王たる町(コンスタンティノープル)の人々へ、さらにまた朕の支配下にある地方の陸および全ての住民に」)

また前文の後に立法の精神・根拠、問題についての一般的考察、原則を説いた序文が置かれ、将来起きうる問題も含めて時空に対して普遍的に適用することを定めているのも特徴である。

2)ディアテュポーシス様式
様式はエーディクトンに近いが、法が効力を持つ対象・期間が限定された立法文書。古代ローマの"leges speciales"が起源。

3)プロスタグマ様式(プロスタクシス、ピッタキオンなど呼称は一致していない
 皇帝から官僚・役人に対して出された指令文書。個別の事象に対する皇帝の指令文書である。

4)クリュソブーロス・ロゴス(金印勅書)
 皇帝から特権を付与する際に用いられた。現存しているものの多くはこれである。エーディクトン様式にならった前文が置かれているが、皇帝の称号に「尊厳なる者(アウグストゥス。またはセバストス)」や「征服称号」は記されない。また宛先は「すべての人々」となっているが、実際は文書の性格上、特定の個人宛である。

5)リュシス文書
 役人や私人から行政や裁判の問題に関して出された質問・請願の回答文書。古代ローマ時代に存在した"rescripta"(回答)という様式の流れを組むものである。現在はほとんど残っていない。法の解釈に関する回答もあり、それは「法」として適用された。

(井上浩一『ビザンツ帝国』 岩波書店P140-141およびP350-353より構成)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月 5日 (木)

ゼノン帝の生き埋めとヘラクレイオス

絵に描いたような名君も極端な暴君も少ない(治績を上げた皇帝の大半は一癖ある人物だし、暴君はすぐにクーデターで帝位から追われている)ビザンティンの歴代皇帝の中で、イサウリア人の首領から帝位に登ったゼノン(在位:474-491)という人物は、甚だ評判が悪い。

何しろ現代の専門書にさえ「個人的資質によって軍の尊敬をかちうるような人物でもなく、外見も立派ではなかった」(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』)と書かれている始末だ。年代記にも、「あらゆる悪徳の宝庫」「臆病」「実に醜い」など、ロクな描写がない。ただでさえ蛮族からの成り上り者なうえに、ばら撒き財政をやって国庫を窮乏させ、しかもカルケドン信条を反故にする勅令を出したために、ローマ・コンスタンティノープル両教会の教会史上初の分裂まで起している。まったく人気が無いから反乱が多発して、一度は帝位を追われてさえいるのだが、どういうわけか陰謀を巧妙に切りぬけて17年間帝位を維持した。

こんな皇帝で、彼の死後に首都市民が「正統信仰のローマ人を皇帝に」とわざわざ要求するほどであったから、その死に際してもこんな伝説が伝えられている。

491年の4月9日に癲癇の発作でゼノンは亡くなり、数日後に聖諸使徒聖堂に埋葬されたが、実はまだゼノンは生きており、棺の中から「許してくれ!」と叫んでいた。しかし、みなゼノンを憎んでいたので無視され、そのまま生き埋めにされてしまった。

本当かどうかはともかく、いかにゼノンが憎まれた皇帝であったかがわかる逸話であるが、後の時代のヘラクレイオス帝(在位:610-641)は、この伝説をやたらと気にしていたらしい。ある年代記によればヘラクレイオスは、葬儀の後三日間、墓に封をしないでおいて欲しいと遺言したと言う。ゼノンのように生き埋めにされるのを恐れたからだ。

なぜ、ヘラクレイオスは生き埋めにされるのを恐れたのだろうか?姪を妻とし、奮戦空しくアラブ人にオリエントの領土を奪われたことで人々の恨みを買っていると、失意で病床に臥せりながら考えていたのだろうか。颯爽と帝都に艦隊を率いて登場した英雄が、31年後には生き埋めにされる心配をしなければならなかった、というのも悲しい話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ビザンティンの暦法

ビザンティンでは古代ローマのユリウス・カエサルが定めたユリウス暦が使われていた。この暦は1年を365.25日としていたため、実際より1年が0.0078日長くなっており、13世紀には、第1回ニカイア公会議で3月21日と定めた春分が10日もずれるようになってきた。このため帝国末期の「パライオロゴス朝ルネサンス」の時代にグレゴラスという人物が改革案を発表したが、彼の後ろ盾だった皇帝アンドロニコス2世パライオロゴス(在位:1282-1328)が失脚してしまったため、実施されることは無かった。現在でも正教会ではこのユリウス暦が使われている。今では、現在世界中で使われているグレゴリウス暦(1年を365日と400分の97日とする)より13日ほどずれているため、正教会では復活祭等の祭礼日が他の教会より遅くなっている。

 また、ビザンティンには年代の数え方に特徴があった。いわゆる西暦(キリストが生誕したとされる年を元年とする)ではなかったのだ。
 古代ローマでは年代を表すのにその年のコンスル(執政官)を用いていた(例:○○と××がコンスルであった年)。当然東西分裂後のローマ帝国でもそれが使われていたが、ユスティニアヌス1世の時代にコンスル職が廃止されてしまうと、この方法は廃止された。その後皇帝の治世年数を記入するようになったが、それも9世紀にも行われなくなり、インディクティオ紀年というものが一般的に使われるようになった。これはディオクレティアヌス帝の時に定められた15年周期の会計年度で、297年9月から翌年9月までを第1年として、それを15年ごとに繰り返す紀年法である(例:「第七インディクティオの年一月」)。ところが、15年ごとに繰り返されるために同じ年がいくつも出てきてしまい、長期にわたって効力を持つ法律文書などには不適当である。そのため10世紀のレオーン6世の時代の法律文書からは新たに天地創造(紀元前5509年とされる)を元年とする年代法が用いられるようになった、例えば西暦1000年は「天地創造より6609年目の年」という具合である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鍵のかけ忘れで陥落した帝都

1453年のオスマン帝国軍によるコンスタンティノープル陥落は、一般的に大砲を始めとする火器の力が大きかった、と言われている。確かにそれ自体は間違いではないのだが、コンスタンティノープルを守っていた難攻不落の「テオドシウスの城壁」は、大砲の攻撃を受けて完全に破壊された訳ではなく(もちろん、かなり破損はしたのだが)、オスマン軍は防衛側の激しい抵抗を受けて城壁を2ヶ月かけても突破できずにいた。では、どうやってオスマン軍は大城壁を突破したのか。それは、事もあろうに防衛側の鍵のかけ忘れであった。

 1453年5月29日の未明にオスマン軍の総攻撃が始まった際、防衛側は大城壁の北東部にあった門の一つ、ケルコポルタ門の通用門の鍵(正確に言うと閂)を閉めるのを忘れていた。これに気付いたオスマン軍の兵士が門からコンスタンティノープル市内に侵入し、北東部のブルケラナエ宮殿一帯を占拠したのだ。これによって混乱した防衛側は総崩れし、それに乗じたオスマン軍の精鋭イエニチェリ軍団が城壁の中央北よりにある聖ロマノス門を突破。これを見た皇帝コンスタンティノス11世は敵軍へ突入して姿を消し、ローマ帝国は滅亡した。1000年にも渡って難攻不落を誇ってきた大城壁、そしてそれに守られた帝都の最期は、何とも悲しく、やりきれないものであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)