2009年8月2日(日)に京大会館で開催された、関西ビザンツ史研究会の25周年特別例会を見学してきました。この回は25年の歩みを井上浩一先生が振り返る報告をし、奈良大学准教授の足立広明先生がそれに対するコメントをするという内容で、レジュメと井上先生、足立先生のお話を基にざっくり要約してみると下記の通りです(こんな出来の悪い要約しか出来ないのですが、レジュメをそのまま載せてしまう訳にもいかないので)。
井上浩一先生の報告「関西ビザンツ史研究会25年とビザンツ史学の将来」
1.歴史
1)前史
*それまで皆無だったビザンツ関連書籍の刊行(西欧偏重への反省?)
**渡辺金一『中世ローマ帝国』(1980年)
**和田廣『ビザンツ帝国』(1981年)
**杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』
2)草創期
*雑談の中からのスタート(大学教員2、高校教員6、院生6、学部生2)
*1984年7月1日の第1回は足立広明(現奈良大学准教授)氏による、ティンネフェルト『初期ビザンツ社会』の書評
*レジュメには第1回例会案内のハガキのコピーが記載され、当日は第1回の井上教授の手書きのメモが入ったレジュメも回覧された
3)1980年代の発展
関東の研究者を交えた「ビザンツ研究者の集い」でも、発表者の大半は関西メンバー
4)1990年代前半の危機
*参加できるメンバー減少(創設時の院生メンバーが関西から離れた場所に就職したことなどから)による危機
*特に1993年は他の分野の研究会との合同開催のみ
*「ビザンツ研究者の集い」でも、発表者が小林功(現立命館大学准教授)氏のみの孤軍奮闘
5)1990年代後半以降
*「集い」が「日本ビザンツ学会」へ発展
*院生が京大と大阪市大に集中(かつては同志社や阪大、神戸大などもいた)
2.活動内容
1)例会
*例会での報告→会員の批判や反論→論文へのフィードバック
*テーマは政治史から多様化
*美術史系の参加も多かったが、現在は日本ビザンツ学会での発表にシフト
*初期から1990年代は書評も多かった
2)関連分野との交流
中世ロシア・東欧、ハザール、古代ローマ、中世イタリア、十字軍、オスマンetc.
3.将来
*歴史学における「ハード・アカデミズム」(新しい知識の発見、国際的な学会でも通用する研究成果の発表)と「ソフト・アカデミズム」(「解釈する歴史学」、知識を広めていく活動)→どちらを目指すべきか
*ビザンツは欧米の学者と日本の学者でスタート地点の差が少ない(ギリシャ人以外は言語的にも、文化的にも異質)、
*「ハード・アカデミズム」の台頭を踏まえた各人の研究スタイルの選択→井上先生自身はダンバートン・オークス留学時の経験か「ソフト・アカデミズム」+啓蒙活動を選択
足立広明先生のコメント
1.1984年という年とビザンツ史研究会の発足
*バブルへと向かう軽さが出ていた時期→そんな世相に背を向けた人たちの集まり
*ビザンツは西欧史、イスラーム史、東欧史と距離がある歴史事象だが上記三世界の成立に深く関わり、それ抜きに正確な理解が不可能な存在
*1980年代の関連書籍発刊
*1983年頃からの始動
*井上先生の自身の視点にこだわらずに広く関連する研究を受け入れる方針から、古代末期からイスラーム研究者まで参加する会に
2.井上浩一:渡辺金一論争とビザンツ史
*西洋史学会での渡辺先生の発表と井上先生の質問→回答一言で打ち切り
*井上先生の『ビザンツ帝国』(岩波)刊行と、それに対する渡辺先生の批判・反論
*渡辺先生の著作は切り口は斬新だが、それに例示されている事象はビザンツ一千年の中でもある特定の時期・地域のみを挙げており、それがビザンツ史全体に適用出来るかどうかは疑問。
3.古代末期とビザンツ史
*古代末期のローマ帝国は既にそれまでとは異質
*6世紀の都市の衰亡は「古代都市の衰亡」なのか(3世紀に既に一度衰亡→復興)
*古典教育の7世紀以降への継続
*古代末期→弓削達、井上浩一両氏の視界の周辺で重なる独自の領域
4.ビザンツ史の将来
*西欧古典学の亜流としての存続
*西欧、東欧、イスラーム各世界の成立とのかかわり→高校の教科書ではわからない
*中世は古代末期に比べて残存史料が少ない→史料に基づく新発見の困難さ、解釈幅の限定
*ハード・アカデミズム成立の条件
*研究の基礎となるべき、古典ギリシャ語・ラテン語教育の衰退
筆者の感想など
井上先生の報告は、ほとんど日本におけるビザンツ研究の(関東は大学の数や学生・研究者数の割にビザンツ関連の研究が出来る大学が少ない上、研究者のまとまりが全然ない)発展史とも呼べる内容でした。井上先生の一般向けの書籍執筆や私のような素人にも丁寧な対応をして下さるのが「啓蒙活動」という個人の信念によるものであるというのも、元々そうであろうとは思っていましたが、納得のいくところであります。
足立先生のコメントでは、
1.の「ビザンツは西欧史、イスラーム史、東欧史と距離がある歴史事象だが上記三世界の成立に深く関わり、それ抜きに正確な理解が不可能な存在」と言うのは、知ってる人にとってはまさにそうだと思えるものでした。ただ、このことが多くの人に知られているかどうかといえば否で、4.にもあるように高校の教科書だとバラバラに成立・展開したようにしか見えません。この辺りにビザンツを知る意義があるのですが、これをどう正しく認識してもらうかは足立先生自身も仰ってましたが、難しい課題だと感じました。
2.の話は、渡辺金一先生の著書は古代ローマ帝国からの連続性・継承性を重視する傾向があり(これは近代以降の「古代ローマからの衰退、退行、停滞」という考え方があり、今でもその古い考えに拘泥している人が特に日本人-たとえばどこかのお婆ちゃん-に多いですが、それに対するアンチテーゼ。『中世ローマ帝国』『コンスタンティノープル一千年』を参照)、それに対し井上先生は古代からの継承された部分も認めつつも明らかに支配構造や都市の在り方など古代とは変わった部分がある(『ビザンツ帝国』『ビザンツ文明の継承と変容』参照)、というものです。ビザンツを古代ローマの継続と見るべきか、古代ローマから派生した後継の別の文明と取るかの違い(足立先生は古代末期~初期ビザンツがご専門ですが、そもそも古代後期のローマ帝国がそれまでとは変わっているというお考えのようです)だと筆者は思うのですが、西洋史学会での井上先生の質問をほとんど一方的に渡辺先生が打ち切るという話の生々しさは特筆もので、「伝説」として伝えられている話をその場で目撃していた足立先生からお聞きしたのは貴重でした。
足立先生のコメントや、参加されていた皆さんの発言でも話題が集中したのは井上先生の報告の最後の「ハード・アカデミズム」か「ソフト・アカデミズム」かでした(足立先生は、日本のビザンツ史学の場合はそんな贅沢な議論が出来る状況じゃない、というニュアンスの発言もされていましたが)。個々の研究者の今後の身の振り方に関わることですから当然のことです。特に院生の方にとっては、これから研究を続けるためには、まず職を得なくてはいけないわけで、切実な問題だということは素人でも想像に難くないことです。研究者の方個人としては新たな発見をし、業績を積み重ねていかねばなりません。
ただ、その一方で日本でのビザンツ史の「啓蒙活動」は井上先生が自らの取るべき道として主に行ってこられ、一般向けの書物を書いて来られました。筆者もそれに影響をされてこんなサイトまでやってる人間ですが、、将来に井上先生のような人がいなくなってしまった場合、米英独仏のような国の近代史とかならいざ知らず、そもそもビザンツが何であるのかさえもロクに知られてないような状態で、この先ビザンツに興味を持って研究を志す人が出てくるのだろうか、ということを懸念してしまいます。筆者もネット上のあちこち(このサイト以外にもWikipediaとかmixiとか)で、ビザンツを少しでも理解してもらおうというつもりで活動してきましたが、素人は素人なりの活動としてこの先出来ることはなんだろうかと考えざるを得ませんでした。
最後に、「これからもよろしくお願いします」とおっしゃって下さった井上先生(本来はどう考えてもこちらから言うべきです)、サイトまで見ていただいていた足立先生、mixiのマイミクまで申し込んでくださった小林先生ほか、中へ入れてくださった関係者の皆様には改めて御礼申し上げます。
※注意
今回筆者が見学した際には、元メンバーの方に色々と研究会の様子を伺っていたことや、井上先生や小林先生、足立先生がこのサイトをご存知だったいうことなで、プラスに作用している部分があります。もしかすると、これを読んだ方で見学をしてみたいという方がいらっしゃるかもしれませんが、筆者が中に入れてもらえたときとは事情が異なる可能性もございますので、十分ご注意ください(「行ってみたら、違ったぞ!」と言われても、補償は致しかねます)。